『めぞん一刻』の終盤において、主人公「五代裕作」がフリーター時代に働いていたキャバレーの上司は、一見すると粗暴な言動の、品のないチンピラに映ります。
しかし、その振る舞いの裏には、部下である五代の状況を冷静に見極める鋭い観察眼と、肝心な場面で相手を思いやる「器量」があります。
彼は、一刻館の外側で、社会に揉まれながら必死に「あがいている」五代くんの姿を近くで見てきた人物です。五代くんの人生の岐路で、その立場や苦労を受け入れて背中を押す。物語の随所に表れる、この上司ならではの配慮と本質を、当時の日本における社会&職場環境をからめて考察します。
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昭和ならではの上司と部下の距離感
まずは『めぞん一刻』についてです。
| 作品名 | めぞん一刻 |
| 作者 | 高橋留美子 |
| 単行本1巻と最終巻発行日 | 1982年5月1日~1987年7月1日 |
| ジャンル | 青年、恋愛、ラブコメ |
| 発行社 | 小学館 |
| レーベル | ビッグコミックス |
| 巻数 | 全15巻(単行本) |
『めぞん一刻』は高橋留美子さんが、1980年代、昭和の時代後期から末期にかけて描かれた、ラブコメの金字塔的作品です。

本稿では、本作のメインキャラクターである「五代裕作」がキャバレーの呼び込みをしていたときの「上司」についての考察です。
彼の名前は作中一度も書かれていなかったので、当サイトではそのまま「上司」と呼称します。
※以降書きます、巻数とページ数はオリジナル版の単行本に対応したものです。
上司は五代くんの悪友「坂本」の高校の先輩でもあります(12巻「PART♥5 沈黙は金ヅル」88ページ)。
上司の最大の特徴は、一見すると強面ですし言動は粗暴で、外見がわかりやすくチンピラ風の風体でありながら、その実、繊細な観察眼と、相手の領域を侵さない「大人の節度」を持ち合わせている点にあります。
例えば、12巻「PART♥6 発覚」では、上司が五代くんの持ち物から彼の生活環境を瞬時に見抜く様子が描かれています。
五代くんが響子さんに作ってもらった弁当を食べていると、上司は「カニさんのウインナーじゃねえか!」「究極の愛妻弁当じゃねえかよっ!!」と彼の頭をぐりぐりしながらからかいます(112ページ)。
この場面は明確に上司から五代くんへの「いじり」ですけど、上司はいじり続けることはしません。その直後に何の脈絡もなく「お茶飲む?」と言葉をかけています。
激しめないじりと静かな問いかけ。この二つの言動が、何の説明もなく隣り合わせに存在していること自体が、この上司と五代くんの間に流れる独特の距離感を示しています。
後日、12巻「PART♥7 ごめんね LUNCH・BOX」では、響子さんとの関係に亀裂が入り、五代くんが一人でハンバーガーを食べている姿を見た上司は「なんだ、今日は弁当なしか」と一言だけ発します(134ページ)。
五代くんが力なく「たぶんもう弁当は…」と答えると、上司はそれ以上深く追及することなく、「スケに逃げられたか。うん わかるわかる」と呟き、無言でタバコに火をつけます。
さらに、机に顔を伏せて落ち込む五代くんに煙がかからないよう、後ろに身体を向き直してふうっと煙を吐いてもいます(134ページ)。
一連のやり取りは、相手のプライバシーに踏み込みすぎず、静かに配慮する彼の態度は、一の瀬さん等、一刻館の住人たちが持つ土足で踏み込んでくるような距離感とは対極にあるものとも言えそうです。
昭和ならではの「境界線」と「情」
昭和の職場文化、とりわけ『めぞん一刻』が描かれた1980年代の現場における「公私の境界線」と「情」は、現代のコンプライアンス重視の視点とは大きく異なるバランスの上に成り立っていました。
上司の振る舞いは、個人の性格・性質の側面を無視できないものの、それ以上に当時の「職場というコミュニティ」のあり方を映し出していることが見えてくるようです。
上司は「社内法」という言葉を使い、職場に私情を持ち込むことを厳しく戒めました。
12巻「PART♥12 縁困関係」では、ホステスのかすみさんに迫られた五代くんに対し、「社内法第三条! 言ってみろ」と迫ります。五代くんが「社内恋愛を禁ず!!」と復唱させ、「なんかあったら てめえクビだぞ」と厳しく釘を刺しています。(220ページ)。
また、15巻「PART♥1 本当のこと」において、店内のホステスさんのための託児所で「七尾こずえ」と私事を持ち込んだ際にも、彼は「社内法第二条、言ってみな」と問い、五代くんが「職場に私事を持ち込むべからず…」と答えると、「別れ話か?」「だったらますますガキの前でする話じゃねーよなー」と釘を差しています(6~7ページ)。
上司は、五代くんにどのような事情があろうと、店の中では一人の「社員」として扱い、規律を乱す行為を許しません。現場で守るべき筋を真っ当に通している人物であることがわかります。
追い込まれた五代への「許可」と「けじめ」
物語の終盤、五代くんが「しいの実保育園」への就職を決め、キャバレーを去る日がやってきます。この退職の場面には、上司が五代くんという存在をどう見守ってきたのかが凝縮されています。
引き止めるホステスを制した「約束」
15巻「PART♥7 約束」にて、五代くんが辞めることを知ったホステスさん等は、「子供たちさみしがるわねー」「どうしてもやめなきゃいけないの?」と口々に引き止めます。彼女らにとっても、五代くんはすでに欠かせない仲間だったのです。
しかし、そこで上司は「オメーら無理言うなよ。就職決まるまでって約束だったんだからよ」と咎めました(135ページ)。
この一言は、昭和昭和の職場文化における『師弟関係』を色濃く表されていそうです。
上司は単に目先の労働力を管理するだけでなく、そもそも五代くんは保父になることが本分でしたから、部下(五代くん)の人生やキャリアを長期的に見守っていて、上記のように五代くんが夢を叶えた(保父になれた)時には、潔くその背中を押しています。
人間関係の濃さと社会の象徴
この場面の直前、響子さんの父が、娘の結婚を認めないことを言うために店に乗り込んできますが、ひどい風邪を引いており倒れてしまいます。
客商売のキャバレーですし、幼い子どもたちがいる場でもありますから、上司としては、ひどい風邪の人を店に置いておくことは感染リスクを考えるとよいことではありません。
ところが彼は、響子さんの父を無碍に帰そうとせず、子どもたちの布団を重ねて寝かせ、多少状態がよくなり目が覚めると、「おっさん復活したか」と野次りながら送別会に巻き込みます(141~142ページ)。
以前当サイトで考察しました「『めぞん一刻』考察:五代のキャバレー搾取は自己破産レベル?負債額を検証」で見られたような経済的な格差や、こうした濃密な人間関係。当時の職場は、一刻館という閉じられた世界とは別の意味で、人間の業や温かさが入り混じった社会の縮図のようでした。

響子に与えた「第三者の視点」

物語が佳境に入る14巻「PART♥3 戸惑いロマンス」では、キャバレーを訪れた響子さんと二人きりになった際、上司はお茶を淹れながら彼女に語りかけます。
ここで彼は、一刻館の住人のような身内や冷やかしの立場ではなく、あくまで五代くんを仕事現場を共にする、一刻館から離れた視点から、響子さんにある指摘を投げかけました。
「七尾こずえ」が話があるから五代くんと店を出たあと、上司は「五代に弁当作ってたのあんたでしょ?」「やっぱりなー、あの娘じゃねえと思ってたんだ」と、二人の関係性を見抜いています(59ページ)。
日々の五代くんの様子を間近で見てきた彼にとって、それが誰の想いによるものかは明白でした。この「現場の目」は、二人の曖昧な関係性を一瞬で可視化させます。
上司はさらに、響子さんが自覚していなかった、あるいは直視を避けていたのかもしれませんが、五代くんの現状を伝えました。
もうちっとくつろがせてやった方がいーんじゃない?
14巻「PART♥3 戸惑いロマンス」59~60ページより
なんかあいつ見てると、無理してあがいてるみたいでさ
(略)
やさしくしてやんなよね
一刻館という狭いコミュニティの中では、距離が近すぎるが故に、お互いの姿がよく見えないことがあったのかもしれません。
一刻館の外から見れば、五代くんが「無理をしてあがいている」姿を毎日職場で見ていた彼の言葉は、響子さんに自分たちの置かれている状況を客観視させる契機となり得たことでしょう。
こちらも上司と部下の距離の近さ故の言動でした。
名前がないことの意味
上司に具体的な名前がつけられなかった理由は何でしょう?
メタ視点で考えれば、登場させた当初、物語上重要な人物ではなかったからでしょうか。しかしながらこれまで書いてきましたように、彼が五代くんや響子さんにもたらしたことは、決して小さなものではなかったはずです。
当初、重要な人物ではなかったはずの彼が、物語を進めるうちに自然と重要度が高まってしまった、ということかもしれません。
別の角度からも考えることができそうです。
物語のメイン舞台である一刻館は、住人同士の距離が近く、家族のような間柄ですから、良くも悪くも「モラトリアムな空間」と言えるでしょう。
一方で、上司のいるキャバレーは違います。売上を機にしなければいけませんし、お酒の席ですから客同士のトラブルや客とのトラブルもよく起きたでしょうし、実害が出ます。つまりそこは「結果」がすべてを支配するシビアな経済活動の現場です。
上司に具体的な名前がないことは、彼が特定の誰かである必要性よりも、「五代くんが向き合うべき社会そのもの」の象徴だったからではないか、と思いました。
これまで書いてきたように、五代くんに幾度か「社内法」を持ち出してプロとしての規律を求めた彼は、五代くんを学生から社会人へと引きずり上げる役割を果たしているからです。
まとめ
まとめます。
キャバレーで働くことは、当初、五代くんにとって他人に言いづらい不本意な選択だったかもしれません。しかし、この場所は最終的に、彼が保父になる道を肯定する場所となりました。それは、上司という存在が、五代裕作という個人を肯定し続けた結果に他なりません。
上司が響子さんへ送った、五代くんが「あがいてる」という言葉は、まさに昭和の職場文化で育まれた「大人の余裕」と「節度」を表しています。
当時は仕事が生活の中心であり、上司が部下の恋愛や人生を間接的に支えるケースが多く見られました。現代失われつつある、この「泥臭い人間味」こそが、一刻館という閉鎖的なコミュニティの外側で、五代くんを客観的に支える力となったと言えそうです。
一刻館の住人たちが五代くんを「いじり」の対象として消費していたのに対し、この上司は、仕事を通じて彼の必死さを認め、人生の岐路において正しく背中を押しました。そしてそれは、五代くんの保育園への就職への大きな足がかりにもなったことでしょう。
相手の人生を見つめ、時には厳しく、時には静かに見守る。そんな昭和の「情」を体現した上司の存在こそが、本作において五代くんを「一人前の男」へと成長させた、隠れた功労者だったのではないでしょうか。

本文に書いたことは私の個人的な意見や解釈でしかありません。決して情報を鵜呑みになさらず、参考程度に抑えて受け取ってくださると幸いです。
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ということで、今回はここまでになります。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。


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