前回、うみ子は海くんを『恋愛対象として一番強い好き』と考察しましたが、逆はどうでしょう。つまり海くんはうみ子をどう思っているのでしょうか。
6話の衝撃発言を中心に、彼の言動や作中描写から考えてみました。
昭和の『めぞん一刻』では五代裕作が音無響子を明確に恋愛対象として追いかけましたが、カイの『好き』は違う形に見えます。

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海のセクシュアリティと「好きにならない」宣言の分析
| 作品名 | 海が走るエンドロール |
| 作者 | たらちねジョン |
| 単行本1巻と最新巻発行日 | 2021年8月25日~2025年7月16日 |
| ジャンル | 女性、ヒューマンドラマ、青春、創作・お仕事 |
| 発行社 | 秋田書店 |
| レーベル | ボニータコミックス |
| 巻数 | 既刊8巻(2026年2月時点) |
漫画『海が走るエンドロール』は「たらちねジョン」さんが描く、ヒューマンドラマ、青春、創作・お仕事系の女性漫画になります。令和の漫画で、記事作成時点で物語は完結していますが、単行本は最終巻待ちの状態です。
本稿ではメインキャラクターの一人「濱内海」は、もう一人のメインキャラである「茅野うみ子」のことを好きなのかどうか。好きだとしたらどのような好きなのか、について考察しています。
うみ子側の想いが多層的で曖昧だったのに対し、海くんの側は比較的判別しやすいように描かれています。
一生 人のこと好きにならないと思う
6話(2巻36ページ)より
このセリフは、海くんがクラブのトイレで、彼の大学の後輩で、うみ子とは同学年「山口」から告白されたときのやり取りで出てきます。
山口の告白をはっきり断った海くんは、理由を引用部のように言いました。
ここで言う「好き」は、恋愛対象としての好きを指しています。
山口はその後しばらく大学を休み、立ち直った後にうみ子と話す中で「思想」や「セクシュアリティ」の話題に触れます。作者があえてこの言葉を挿入したことで、読者には彼の内面が示唆されていると受け取れます。
つまり、引用部の言葉は、単なる「今は恋をする暇がない」という状況説明ではありません。彼のアイデンティティに関わる宣言となっています。
「アセクシャル・アロマンティック」という新しい物差し
公式に明言されているわけではありませんが、8話(2巻80ページ)での山口のセリフから、海くんがいわゆる「アセクシャル(他者に性的に惹かれない)」や「アロマンティック(他者に恋愛感情を抱かない)」、またはそれらに近い性質を持っていることが示唆されています。
昭和の恋愛漫画の主人公たち――例えば『めぞん一刻』の五代裕作なら、音無響子に「好きだ」と言われたら、そのままゴールインを目指して突っ走ることでしょう。
しかし、海くんは違います。彼はうみ子に対しても、他の誰に対しても、その「恋愛のテンプレート」を持ち込みません。
言い換えれば、作者のたらちねジョンさんは、海くんを「恋愛必須ではない存在」として意図的に描いているということでもあるでしょう。
その後も彼のこのスタンスは揺らいでいません。うみ子への態度にも、恋愛的な進展(告白・嫉妬・性的な視線など)は一切描かれていないと読めます。
もっと言えば、もし海くんが恋愛感情を抱きにくいタイプであるなら、うみ子を恋人として欲する可能性は極めて低いと言えます。
昭和の恋愛と令和の境界のない関係性
二人の年齢差45歳という現実を考えると、昭和の恋愛漫画では「あり得ない」設定と思いますが、令和の本作では「それでも成立する絆」として肯定されています。
うみ子が「世間が認めるだけが恋愛ならさみしい」と自問したのに対し、海くんは最初から世間が認める恋愛を前提にしていない――ここに二人の想いの決定的な違いがあります。
『めぞん一刻』の五代くんは、響子さんに対して明確に恋愛感情を抱き、告白し、嫉妬したりされたり、ビンタを食らいながらもゴールへと進みました。五代くんの「好き」は、恋愛対象としての好きが中心で、一刻館という共同体の邪魔という名の後押しで育まれました。
一方、海くんの「好きにならない」宣言は、昭和の「恋愛=成就」という枠組みを最初から外しています。 8巻までの彼は、うみ子を「映画人として尊敬し」「人間として信頼し」「撮りたい対象として魅力を感じ」ている、という形で「好き」を表現していますが、それ以上、つまり「恋愛的欲求」には踏み込んでいません。
これは令和のセクシュアリティ多様性を反映した、境界なき関係性の象徴と言えるでしょう。
作者が意図的に境界を曖昧に保っているからこそ、読者それぞれが「これは友情か? 師弟愛か? それとも新しい形の絆か?」と想像できる、とも言うことができそうです。
視点
記事作成現在、この宣言は彼のキャラクターの基盤として、その後も一貫しているようです。
だからこそ、うみ子の多層的な「好き」と彼の「恋愛抜きの好き」がぶつかり合いながらも、関係性を築いている――それがこの作品の令和らしさの核心ではないかと思います。
海のうみ子への具体的な「好き」の証拠シーン
6話の「好きにならない」宣言を基盤にしながらも、それ以降の描写ではうみ子に対する明確で強い好意が何度も描かれています。
ただし、それは恋愛対象としての好きではなく、映画人として・人間として・撮りたい対象としての「好き」です。
年齢差45歳という現実を前にしても、二人が互いを「横を走り続ける存在」として認め合う様子を象徴しています。以下に、主な証拠シーンを挙げましょう。
「友人」という最高位の敬意
とある事情で二人が海外へ渡った際、周囲からの「おばあさま?」「俳優さん?」という問いに対し、海くんは迷いなくこう答えます。
友人ですね 同じ大学の映像科で
33話(7巻84ページ)より
これは対外的な応対ですが、海くんがうみ子を「友人」として自然に位置づけている証拠です。
昭和の感覚なら、年齢差や立場を考えれば、家族のような関係などと濁す選択肢もあったはずですが、彼は迷わず「友人」と言い切りました、
これは、対等な関係を意識している表れ。うみ子を「特別扱い」せず、創作の場で並走するパートナーとして見ていることがわかります。
五代くんが響子さんを「管理人さん」という役割から「恋人」へ明確にシフトしたように、海くんもうみ子を「高齢者」という枠から「一人の友人」へと解き放っている、対等な絆の表れです。
「佇まい」に惚れるということ
海くんは、うみ子の「自分にはない目線と考え方」、そして「純粋な佇まい」に魅力を感じていると語ります。
自分にはない目線と考え方 …あと純粋に 佇まい
27話(6巻60ページ)より
ここで海くんは、うみ子の年齢ゆえの視点や人生経験から来る在り方ばかりでなく、一個の人間として純粋に魅力的だと認めています。
これはお世辞ではなく、彼自身が撮りたい対象としてうみ子を欲している証です。
引用部の言葉は、恋愛抜きで、創作の同志として高め合う関係性が美しく描かれています。
最大級の信頼と信頼の表明
彼の感情が最も熱く露呈したのが「過信」という言葉です。
(うみ子に「どんな映画に出たいか」と聞かれ)うみ子さんが 撮りたい映画に出たいです
11話(3巻30~31ページ)より
これは映画監督を目指す者にとって最大級の信頼を表しているでしょう。
俺 うみ子さんを過信しています
21話(5巻34~35ページ)より
ずっと お互いの話や 映画の話ができたり 横を 走り続けてくれると思ってます
「過信」は勘違いの意味も含みますが、直後に「勘違いだ」と伝えつつも、「横を走り続ける」という永続的なパートナーシップを宣言しています。
恋愛的な「好き」ではなく、人生の再起動を共に走る「好き」――これが彼の想いの本質ではないでしょうか。
この「横を走り続けてほしい」という願いは、ある意味でどんな愛の告白よりも重い「終生の契約」のように私には思えます。

視点
五代くんの愛が「あなたを幸せにする」という包容力だったのに対し、海くんの愛は「あなたと一緒にどこまでも走り切る」という、これはどちらにも大きな覚悟が求められる連帯感です。
恋愛対象として好きにならないと宣言している彼が、ここまで一人の人間に執着する。このある種「恋愛を超えたパートナーシップ」こそが、本作が描く「最上級の好き」の正体ではないでしょうか。
そして、昭和の五代くんのように「恋愛成就」を目指すのではなく、令和の海くんは「映画という海で一緒に走り続ける」ことを選んでいる。これも令和らしい人間関係でしょう。
『めぞん一刻』との「好きの形」の違い
ここまで見てきた海くんのうみ子への「好き」は、恋愛感情を伴わないが極めて深い絆として描かれています。 この関係性を、めぞん一刻の五代くんと響子さんの関係と比較すると、時代ごとの「好き」の形の違いが浮かび上がってきそうです。
共通点
共通点を考えてみましょう。
響子さんと五代くんに関して、響子さんは夫・惣一郎さんを亡くした未亡人としての立場に縛られていました。
五代くんの、優柔不断やだらしなさに通じることも多々あった優しさと、浪人や就活失敗、バイトのクビなどの失敗を繰り返しながらも前向きに生きる姿が、彼女の心を少しずつ解きほぐしいます。
彼は管理人の響子さんを女性として見つめ、恋愛感情を明確に抱き、暴言やビンタ、嫉妬など食らいながらも関係を深めていきます。
一方で、うみ子も夫の四十九日を終えたばかりでぼんやりと日常を過ごしていました。映画館で偶然出会った海くんに「映画を撮る側なんじゃないの?」というひと言が、65歳で美大入学という人生の再起動のきっかけになります。
海くんはうみ子を「撮りたい対象」「横を走り続ける存在」として高く評価、創作の情熱を通じて絆を築きます。
どちらも年下男性の存在が、未亡人の女性に「新しい人生」を開かせるという点で重なります。
昭和も令和も、「失ったものを埋める」ではなく「新しいものを生み出す」存在として年下男性が機能しているのです。
相違点
当然ながら異なる点も存在しています。
五代くんの響子さんへの好きは明確に恋愛対象としてのそれです。
物語序盤からすでに告白しており、嫉妬や誤解、住人の邪魔、三鷹さんやこずえちゃんとの三角関係などを経て、恋愛成就、結婚、出産というハッピーエンドに向かいます。
ここでは好きは恋愛感情を中心に据えて、未亡人という設定や五代くんの就職失敗という設定が切実さを生んでいる一方で、最終的に世間が認める形(五代くんの就職と結婚)で解決されます。
恋愛が明確に定義されており、それが成就することが物語の軸でした。
本作では海くんのうみ子への好きは恋愛感情を伴いません。告白も嫉妬も性的な視線も一切なく、代わりに「友人」「撮りたい対象」「横を走り続けるパートナー」という言葉が繰り返されます。
年齢差45歳という、世間が認めにくい設定を前に、うみ子は「世間が認めるだけが恋愛ならさみしい」と自問しますが、彼は最初からその枠組を外しています。
結果として、恋愛要素を抜いても関係が成立するどころか、むしろ美しささえ感じさせます。これは令和のセクシュアリティの多様性を反映した、好きの多様性を肯定する描き方です。
時代変遷の象徴
昭和のめぞん一刻では、恋は一刻館という共同体の中で育まれ、コミュニティ内の人たちのの邪魔や支えによって恋を成功に導いています。恋愛は社会的な承認と結び付き、明確なゴールがありました。
令和の本作は、恋または絆は映画制作という個の情熱の中に育まれます。一刻館という物理的な場所ではなく、美大やロケハンの土地、映画祭といった創作現場が二人の距離を縮めます。
ゴールは恋愛成就ではなく、お互いの海を走り続けることであり、二人は映画祭やうみ子の病気による葛藤を共に乗りこえることで、創作の同士として深まっていきます。

視点
「好きだから、僕の家族になってほしい」という昭和の献身と、「好きだから、僕を驚かせる表現者であり続けてほしい」という令和の信頼。
どちらが上か下かではなく、この40年で「好き」という感情が、これほどまでに多様に進化した事実にあらためて驚きを禁じ得ないですね。
まとめ(私的結論)
まとめます。
昭和の『めぞん一刻』は「明確な恋愛成就」の物語であり、昭和の「恋愛=結婚」という枠組みを綺麗に描き切りました。
一方、令和の『海が走るエンドロール』は「恋愛しなくても、こんなに強い絆が生まれる」という令和の新境地を示しています。海くんの「好きにならない」宣言が、うみ子の年齢差恋を「タブー」ではなくし、より自由で普遍的なステージに昇華させているのです。
この二つの作品は昭和の「明確な恋」から令和の「境界なき絆」への移り変わりを、未亡人という共通のモチーフで描き分けているように私には思えてきます。
本文に書いていることはあくまでも私個人の意見であり感想です。絶対的なものではありませんので鵜呑みになさらず参考程度に抑えてご覧になってください。
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ということで、今回はここまでになります。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。


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