『海が走るエンドロール』の濱内海を初めて見たとき、「このキャラは、男か女かわからない……」と思ったのは、私だけではないはずです。
金髪のショートボブ、細身で手足の長いシルエット、丸みのある顔立ちにすっとした顎。黒を基調にしたシンプルな服装で、2話の扉絵ではうみ子とペアでワンピースを着て手をつないでいる。
一見すると美少女にも見えるし、でも男性性も感じられる。
漫画ではしばしば「初見殺しの中性キャラ」が登場しますけど、海はその中でも特にわかりにくい存在に個人的には見えます。
「男か女か」という事実は、物語を進める上での単なる設定に過ぎないのか。それとも、彼が「海」という名前であることと同じくらい、重要な意味を持っているのか。
今回は、単行本8巻までを読み込み、作中に散らばった「証拠」を丁寧に拾い集めながら、濱内海という存在の正体に迫ってみます。
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証拠集め:作中に散らばる「男性」の証明
| 作品名 | 海が走るエンドロール |
| 作者 | たらちねジョン |
| 単行本1巻と最新巻発行日 | 2021年8月25日~2025年7月16日 |
| ジャンル | 女性、ヒューマンドラマ、青春、創作・お仕事 |
| 発行社 | 秋田書店 |
| レーベル | ボニータコミックス |
| 巻数 | 既刊8巻(2026年2月時点) |
漫画『海が走るエンドロール』は「たらちねジョン」さんが描く、ヒューマンドラマ、青春、創作・お仕事系の女性漫画になります。令和の漫画で、記事作成時点で物語は完結していますが、単行本は最終巻待ちの状態です。
本稿では、メインキャラクターの一人「濱内海」の中性的な外見についての考察です。
外見だけでは判断がつかない彼ですが、物語が進むにつれて、彼が生物学的に男性であることを示す決定的なシーンがいくつか提示されます。
高校時代の「学ラン」という過去
もっとも確実な証拠は、4〜5話(1巻)で描かれた高校時代の回想シーンにあります。
映画作りに没頭していた当時の海くんは「学ラン」を着用しています。
同じコマにセーラー服の生徒も描かれていることから、学校指定の制服として学ランを着ていることがわかります。最近はジェンダーレス制服も増えていますが、この物語の流れでは「男性であること」を示す明確な記号として機能しています。
一人称が「俺」であること
1話でうみ子に自己紹介をした際、彼は自分のことをこう呼びました。
あ 俺カイです
1話(1巻31ページ)より
一人称が「俺」であることは、現代の漫画ではほぼ男性キャラクターの特徴です。
もちろん、創作の世界ではボクっ娘や俺女という属性を持つ女性キャラが「俺」を使うケースはありますが、海くんの場合は学ラン描写と合わせても「男性」であることを強く示唆している材料になります。
うみ子が最初「カイ…ちゃん くん?」と迷ったのも、この時点ではまだ外見だけを見ていたからでしょう。
海辺で晒した「上半身」のライン
5話でロケハンのために海を訪れた際、波を被って前進ずぶ濡れになった海くんがシャツを脱ぐシーン。ここが決定打でした。
露わになったその上半身は、肩幅の広さ、胸板の厚み、腰から脚にかけての骨格など、明らかに男性の身体的特徴を持って描かれています。
うみ子とカイが大学の課題ロケハンで海へ行き、カイが波に飲まれて全身ずぶ濡れになるシーン。 カイは黒いトップスを脱ぎ、上半身裸になります。
ここで描かれる体型は、肩幅・胸板・腹筋のラインが明らかに男性のそれです。女性の体型ならもっと柔らかい曲線や胸の膨らみが強調されるはずですが、カイはフラットで骨ばった印象。
この瞬間、うみ子は海の笑顔にハッとし、「あなたで映画を撮るわ」と宣言します。
個人的には、ここがうみ子が海という存在をクリエイターとして、あるいは一人の人間として強く意識した決定的な瞬間だと思います。
上半身の描写は、読者にも「これは男の子だ」と視覚的に確定させる役割を果たしています。
これらの証拠の意味
外見が中性的にデザインされているのは作者の意図ですが、学ラン・「俺」・上半身という3つの描写が重なることで、性別は男性と確定します。
これら複数の証拠を重ね合わせることで、「濱内海は男性である」という結論に達します。
しかし、面白いのは、男性であることが判明した途端、彼の中性的な危うさが消えるかと思いきや、むしろ「男性なのに、なぜこれほどまでに柔らかく、性別を超越して見えるのか」という新たな謎や魅力へとつながっていく点でしょう。

「くんでもちゃんでもいい」が示す精神性
1話に、うみ子の「カイ…ちゃん くん?」の問いに対して海くんが返したセリフがあります。
このセリフは、1話でうみ子がカイに「カイ…ちゃん くん?」と聞いた直後の、カイの返答です。
くんでもちゃんでも なんでもいいですけど
1話(1巻32ページ)より
この一言は、ただの「どっちでもいいよ」という軽い返事ではなく、カイの精神性・価値観を象徴する非常に重要な言葉だと思います。
うみ子が「男の子だったのね」と確信した理由
うみ子は海くんの「くんでもちゃんでもなんでもいいですけど」という返事を聞いて、心の中で「男の子だったのね」とつぶやきます。
「なんでもいい」と言われたらむしろ確信が持てないはずなのに、なぜうみ子はここで「男の子」と判断したのか?
私の解釈はこうです
- うみ子は「ちゃん」から先に言った(女性寄りの呼び方を先に挙げた)。
- 海くんは「くんでもちゃんでも」と答えたが、「くん」を先に言った。 → これは無意識に「くん(男の子寄り)」を優先したニュアンスで、うみ子に「本人は男の子として認識しているんだな」と直感させたのではないか。
しかし、それだけでは弱いので、もう一歩踏み込んで考えてみます。
「なんでもいいですけど」の本質的な意味
カイのこの返事は、性別のラベルに対する無頓着さ・無関心を表しています。
- 「くん」=男の子呼び
- 「ちゃん」=女の子・可愛がり呼び
どちらでも構わない、ということは、「性別で自分の扱われ方を決めつけてほしくない」という強い意志を感じます。
あるいは、「性別という枠組み自体に興味がない」という、令和の若者らしい自由さ・超越した感覚です。
私自身もそうですけど、昭和の男の子は「ちゃん」呼ばわりを嫌がったりする子が多かったです。
しかし海くんは「どっちでもいい」と余裕を持って受け流す。この「余裕」や「無頓着さ」が、かえって野生的な本能や男性的な芯の強さをうみ子に直感させたのではないか、という考えです。
中性的外見と精神性の一致
海くんの外見が中性的にデザインされているのは、この精神性を視覚的に表現するためだと思えてきます。
性別の記号(髪型・服装・体型)をぼかしているからこそ、「くんでもちゃんでもいい」という言葉が、より強く響く。
うみ子は、外見の曖昧さ+このセリフで、 「海くんは男の子だけど、性別で縛られない自由な存在」だと認識した。それが、うみ子がカイを「被写体」として強く意識し始めた瞬間でもあったはずです。
このセリフは、濱内海というキャラの魅力の核心です。
「どっちでもいい」って言うことで、逆に「どっちでもない自分」を主張しているような、静か、でも力強い反抗心を感じます。
令和の漫画だからこそ描ける「性別の境界を軽やかに飛び越える」精神性ではないでしょうか。

レンズが捉える「現象」
海くんが男性であるという事実は確定しましたが、物語が進むにつれて、彼が男性という属性を脱ぎ捨て、一つの「美しい現象」としてスクリーンに映し出される瞬間が増えていきます。
ここでは、その「性別を超えた被写体」としての海くんを、作中の描写から私なりに読み解いてみます。
2話扉絵の象徴性:ワンピースを着た海
2話の扉絵で、海くんとうみ子が同じデザインのワンピースを着て、手をつないで横並びに立っているイラストがあります。
この絵は本編と直接リンクしませんが、作者が意図的に描いた「性別の記号を交換する」シーンです。
彼は学ランを着る男の子でありながら、ワンピースを着ても違和感なく美しい。これは「性別は着替えられる衣装に過ぎない」というメッセージを視覚的に示しているようです。
うみ子のカメラが捉える「海」
うみ子がカイを撮るとき、そこには男女の恋愛感情を超えた、クリエイター同士の鋭い視線が交差します。
うみ子は海くんを撮りたいと強く意識し始めますが、ここでうみ子が感じたのは、「男の子としての海」ではなく、性別を超えた「ゾクゾクする」何か。「光と影を持つ一つの存在」です。
海くんが中性的であることは、うみ子にとって「異性という壁」を感じさせず、同時に「自分とは違う若さ」という鏡として機能します。
「くんでもちゃんでもいい」が自由を象徴
海くんの「くんでもちゃんでもなんでもいい」という言葉は、性別のラベルを拒否するだけでなく、変幻自在な存在であることを示しているようです。
性別が曖昧に見えるのは、彼が「何者にでもなれる、まだ何者でもない可能性」を体現しているからではないでしょうか。
彼が映画監督としても演者としても輝きを放ったことと無関係ではないでしょうし、うみ子の映画に彼必要不可欠だった理由ではないか、と私には思えます。

まとめ(私的結論)
まとめます。
「濱内海は男か、女か?」という問いから始まった本稿ですが、8巻まで読み終えた今、私の中に残っているのは「そんな枠組みはどうでもよくなるほどの輝き」です。
かつて私たちが親しんだ昭和の物語には、男女の役割という明確な線引きがありました。
『めぞん一刻』の五代裕作のように、時には情けなくても、最後には男として愛する人を守り抜くという着地点が昭和にはありました。
対して海くんは男・女、守る・守られるといったわかりやすい二元論ではなく、一人の表現者として、あるいは一人の存在として、うみ子と対等に響き合っています。
男性という身体を持ちながら、女性のようなしなやかさを持ち、そのどちらにも固執しない。この「境界線のなさ」こそが、彼を魅力的に見せている正体ではないかと思います。
思えば、彼の名前は「海」です。海には地図上に描き込まれているような太平洋・大西洋などの境界線がありません。青にも緑にも、夜には黒にも色を変えますし、凪の時もあれば嵐の時もあります。
海くんが「くんでもちゃんでもいい」と言ったのは、彼自身が自分のことを、性別という小さな枠組みではなく、「海という現象・存在」として捉えているからではないか。私はそのように感じています。
記事に書いたことは、あくまでも私個人の意見であり感想です。絶対的なものではありませんので鵜呑みになさらず参考程度に抑えてご覧になってください。
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