漫画『違国日記』において、「朝」の親友「えみり」の同性愛が「普通の女子高生の恋」として、あまりに自然に描かれていることに改めて考えさせられました。
私が子ども時代に過ごした昭和の感覚で言うと、青年誌や少年誌でレズビアンのキャラクターが描かれることは、私が読んだ中では一度たりともありませんでした。
ゲイのキャラクターが登場したとしても、「強烈な個性のネタキャラ」として扱われるのが主流だった気がします。
しかし令和の今、本作のえみりや、『ひらやすみ』の中島レイナのように、カミングアウトもまた日常の風景の一部として描かれています。
それは前回の記事で触れた『めぞん一刻』の「昭和の異性愛ファンタジー」とは正反対の、痛みを伴うリアリズムです。
本稿では、えみりと、彼女の恋人「しょうこ」を中心に、その変化を考えてみたいと思います。
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えみりの恋人・しょうこってどんな人?
| 作品名 | 違国日記 |
| 作者 | ヤマシタトモコ |
| 単行本1巻と最終巻発行日 | 2017年5月1日~2023年8月15日 |
| ジャンル | 女性、ヒューマンドラマ、日常系 |
| 発行社 | 祥伝社 |
| レーベル | FEEL COMICS swing |
| 巻数 | 全11巻(単行本) |
漫画『違国日記』は「ヤマシタトモコ」さんが描く、ヒューマンドラマ、日常系の女性漫画になります。平成末期から令和初期にかけて連載されていました。
『違国日記』の物語において、朝(あさ)の親友として登場する「楢えみり」。彼女は朝にさえ、ずっと隠していた恋人がいます。名前は「しょうこ」。苗字は作中で明かされていません。
しょうこは、えみりとは別の学校に通う帰国子女で、頭がよく、塾で出会った相手(10巻47.5話より)。
しょうこの初登場は6巻29話で、ファストフード店で二人でおしゃべりをしているシーンから始まります。しょうこの初々しい笑顔と、えみりの少し緊張した表情が印象的で、そこには「普通の女子高生の恋」という言葉がぴったり当てはまる穏やかさがあります。
ここから、えみりにとっては塾が、閉じられたコミュニティ(学校)の外側にある「安全地帯」であることと、えみりにとってしょうこが「自分らしくいられる唯一の存在」であることが伝わってきます。
「アイドル好き」という防波堤
えみりは物語の序盤から、周囲に対して「女の子のアイドルが好き」であることを公言していました。
うちもさー あたし女の子好きじゃん アイドル
3巻14話より
あたしがアイドルになりたくて見てると思ってる節あんだよね
引用は母親とのすれ違いを語るシーンですが、今読み返すととても示唆的です。
「女の子が好き」という本音を、「アイドルのファン」という世間一般に許容されやすい形にコーティングしているようにも読めます。
「推し活」という言葉が浸透した現代において、それは自分を守るための、最も自然で、かつ最も強固な「防波堤」だったのかもしれません。
隠し続けられた「日常」
しょうこと過ごす時間は、えみりにとって何物にも代えがたい大切なものでしょう。しかし、その時間は朝たちが生きる「日常」からは切り離されていました。
学校での会話、親との食卓。そこには常に「将来の結婚」や「異性の彼氏」といった無言の圧力が漂っています。
かつての昭和の名作『めぞん一刻』であれば、一刻館の住人たちが一丸となって応援したであろう「恋の話」も、えみりにとっては「誰にも相談できない秘密」として抱え込まざるを得ませんでした。
しょうこと二人、ファストフード店でお茶をする、塾で会う、LINEで話す――そんな普通の時間が、えみりにとってどれだけ大切なものだったか。
好きなだけでは続かない
しょうこのセリフの中で、特におじさんの胸に刺さったのが、8巻36話のこの言葉です。
もしもあたしら 別れてもずっと友達で助け合おーよ
8巻36話より
という言葉は、別れを予感させる言葉に聞こえますし、それと同時に同性愛の生きにくさを予感させもしています。
家族への説明、社会的な障害など、「好きなだけでは続かない」現実を、しょうこはすでに知っているのかもしれません。
それでも「友達で助け合おう」という言葉には、「別れてもつながりを失わない」という柔軟な希望が込められています。
カミングアウトの経緯と朝の反応 ― 偏見と反省のプロセス

えみりが親友である朝にさえ、長い間恋人の存在を隠し続けていていました。
理由、それは朝の中に潜む「無自覚な偏見」を敏感に感じ取っていたからでしょう。
相談の相手に「槙生」を選んだ理由
えみりは、母親や朝ではなく、まず槙生に心の内を漏らします。
4巻18話で「親がいずれ結婚するんだからとか言うんですけど……」と切り出したのが始まりでした。
槙生は、世間一般の「普通」から少し外れた場所で、自分の孤独を大切に生きている大人です。
彼女なら「そんなの気にしなくていいよ」という安易な励ましではなく、一人の個人として話を聞いてくれる。そう確信したからこそ、えみりは自分の秘密を打ち明ける決意をしたのでしょう。
8巻36話での槙生の言葉、「あなたには誰からでも自分の秘密を守る権利があるよ」というメッセージが、えみりに「言うか、言わないか」を自分で決める主体性を与えました。
朝の無神経な反応を振り返る
カミングアウトを受けた際の朝の反応は、私の世代から見ても「ああ、これはきついな」と思わされるものでした。
朝は悪気なく、これまでの日常でえみりを追い詰める言葉を投げかけていました。
朝の無神経発言私選TOP3
「えみりさー 彼氏作んないの?」(4巻16話):異性と付き合うことが唯一の解であるという、最も無邪気で強固な「普通」の押し付けです。
「えー なにそれ じゃ 女子が好きなの?」(5巻21話):相手が当事者である可能性をまるで考慮していない、冗談交じりの揶揄。これがえみりの口を閉ざさせました。
「えー あたし偏見ないし」(8巻37話):同性の恋人がいると告白を受けた直後のこの一言が、最もえみりを傷つけた可能性は高いでしょう。「偏見がない」と思い込んでいる人こそ、自分の加害性に気づけないからです。
「ゴン!」という音から始まった再定義
えみりからこれまでの痛みを指摘された朝は、テーブルに頭を「ゴン」と打ち付けて謝罪します。 頭の痛みとともに朝が理解したのは、「理解すること」よりも「わからないことを認めること」だったでしょう。
えみりが何で傷つくかは……えみりが決めるんだ……あたしじゃなくて
8巻37話より
相手を100%理解することはできないけれど、相手が自分とは違うことで傷ついている事実は尊重する。
『めぞん一刻』など昭和の物語が登場人物を一つの価値観に誘っていたのに対し、令和の朝とえみりは「お互い違う人生を歩いている」という境界線を引くことで、初めて対等な人間関係になれたのです。
思い返すと、私たちの世代も「偏見ないよ」と言いながら、相手の違いを「普通じゃない」と無意識に否定することが少なくなかったです。朝の無神経さは、昭和的価値観の残り香が令和にもまだ息づいている証拠でしょう。
しかし、朝が頭を下げたように、「わからないことを認める」ことで、初めて「隣にいる」ことが可能になる。この痛みを知ることと反省のプロセスこそが、「違う方向を向きながらも寄り添う」令和の誠実さなのだと思います。
昭和の「ネタ扱い」vs令和の「オープンで自然な恋」
昭和から平成、そして令和へ。漫画における同性愛の描かれ方は、単なる「設定」の変化ではないように思えます。
昭和・平成の「アクセント」としての同性愛
昭和や平成時代の少年誌において、同性愛的な要素を持つキャラクターは、物語を盛り上げるための「ネタ」や「特殊なアクセント」として機能することが一般的でした。
以前、昭和の『めぞん一刻』に同性愛のキャラクターがいないことを記事にしています。
そこでも触れたことは、昭和から平成にかけての少年誌では、『ハイスクール奇面組』の物星大や『ドラゴンボール』のブルー将軍、『ワンピース』のボン・クレーのように、非常に強烈な個性を持ち、読者に強い印象を残しましたが、あくまで「おカマキャラ」という、物語に笑いや意外性をもたらすの記号に留まっていました。
めぞん一刻のような異性愛オンリーのファンタジーが主流だったのも、「みんな同じ方向(結婚・異性愛)を向く」ことで物語が成立しやすかったからではないか、という考察です。詳しくは下記のリンクに書いてありますので、ぜひあわせてご覧になってください。

令和の「グラデーション」としての日常
対して令和の物語である『違国日記』では、えみりの同性愛は「特別な事件」ではなく、「女子高生の日常」として描かれます。
しょうことの関係は、ファストフード店でお茶をし、塾で会い、LINEで話すという、日常の積み重ねです。
カミングアウトも「特別なイベント」ではなく、親友への告白として自然に起こっています。
この傾向は、同じく令和の話題の日常系漫画である『ひらやすみ』(真造圭伍・著)にも共通しています。9巻で描かれる「中島レイナ」の告白シーンがその象徴です。
彼女は学祭という喧騒の中で、主人公ヒロトの従姉妹「なつみ」に「彼女がいる」と告白します。
このシーンも、同性愛が「特別な設定」ではなく、日常の延長として描かれています。
レイナはただ、「好きな人がいて、その人が女性だった」という事実を伝え、なつみもそれを「普通のこと」として受け止めています。
この2つのケースが示すように、「特別視しない、けれど軽視もしない」という描き方こそが、令和のリアリズムなのだと強く感じます。
私の子ども時代、こういう話題はネタにして笑う傾向が強かったように思います。令和の漫画はそのようなことを、「違う方向を向いていても尚、隣にいられる」ことを丁寧に描いています。
えみりの涙と朝の頭打ち、レイナの告白は、そんな令和ならではの優しさの表れだと思います。
時代が変わった証拠でもあって、個人的にそこには寂しさもありつつ、同時に「普通」という言葉の重さを改めて考えさせられる部分でもあります。
結論(まとめ)
私なりの結論です。
えみりの恋人が同性であること、そして彼女が抱えていた葛藤。これらから見えてくるものは、私たちが生きる社会の「幸せの形」が、大きく変化したことです。
昭和のめぞん一刻では、「みんな同じ方向(結婚・異性愛)を向く」ことの幸せが描かれましたが、令和の違国日記では、「それぞれ異なる直線を、互いに認め合って並走する」ことの絆が描かれています。
えみりが求めていたのは、誰かと一つの価値観にまとまることではなく、「自分の進む道を、誰にも曲げられずに進み続けること」でした。その願いを、朝が「わからないけれど、尊重する」という形で受け入れたとき、二人の関係は本当の意味で対等になったのだと感じます。
えみりや『ひらやすみ』の中島レイナが見せたのは、ファストフード店でお茶をしたり、学祭の準備に追われたりする、私たちと地続きの「日常」でした。
彼女たちの恋を「普通」として描くリアリズムは、かつてのネタ扱いで傷ついていた人たちへの、一つの回答なのかもしれません。
『うる星やつら』の竜之介や『らんま1/2』などジェンダーを行き来するヒット作を生み出した高橋留美子さんがどうして『めぞん一刻』にはそういうキャラクターが一切登場しないのか。それについて当サイトでは考察しています。下に貼った記事リンクがそれですので、あわせてご覧になってください。


この記事で書いたことは、あくまでも私なりの考察です。これが絶対的な意見だと言っているものではありません。ご了承ください。
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ということで、今回はここまでになります。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。


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